戦時中、川西航空機(現在の新明和工業)への
人員と物資の輸送のため勤労奉仕隊や阪神社員などを動員して突貫工事が行われ
昭和18年(1943)11月21日武庫川~洲先間、
昭和19年(1944)8月17日に武庫川~武庫大橋間
11月25日に武庫大橋~国鉄西ノ宮間が開通し国鉄貨物の乗り入れを開始した。
なお武庫大橋~西ノ宮間は阪神の路線としては
未成線の扱いとなっていた。
(当時の洲先駅は現在の武庫川団地駅付近)
洲先~武庫大橋間は国鉄貨物乗り入れのため、
三線軌で敷設されていた。
洲先からさらに海岸線の東浜(西高州)へ
つなぐべく、武庫川に橋脚が建てられた。
しかし、戦争末期の空襲で中島飛行機を初めとする軍需工場は壊滅的な被害を受けた。
武庫川線も期待されていた機能を発揮できないまま終戦を迎え
昭和21年(1946)1月に武庫大橋~洲先間全線の
旅客営業が休止された
昭和23年(1948)年10月に武庫川~洲崎間の旅客営業が再開されたが、
武庫川~武庫大橋間は休止されたまま復活することはなかった。
国鉄貨物乗り入れは川西航空機を占領した進駐軍の要請で再開されたが、
占領終結とともに運行停止されたのち1958年7月に正式に休止されている。
中島航空機跡地は阪神系列の摂津車両→武庫川車両となり新造車や改造などで
武庫川車両へ出入りする車両が武庫川線を自力回送で走る光景が見られた。
未成線のうち洲先~西高州間は昭和45年(1970)11月5日に
海岸線の未成区間の東浜(西高州)~浜甲子園間とともに起業廃止の手続きが取られている。
長らく休止状態が続いていた国鉄貨物乗り入れも同日に正式廃止された。
やがて武庫川車両も尼崎車庫内へ移転、かつて軍需工場が広がっていた地域は
武庫川団地となった。
1980年代初め、住宅公団から団地内への延伸を打診された阪神は
休止区間のうち南側区間を復活させ、昭和59年(1984)4月3日に
武庫川団地~洲先間の営業を開始している
そして昭和60年(1985)4月14日、休止中の武庫川~武庫大橋間が正式廃止され、
未成線としての武庫大橋~甲子園口間が起業廃止された。
その後、跡地は住宅地などに転用され、廃墟となっていた武庫大橋駅も姿を消した。
昭和29年(1954)頃の武庫川駅
国鉄貨物が入線している線路は三線軌となっていた。
( Wikimedia Commonsから引用)
昭和18年(1943)3月16日 東浜(西高州)~国鉄西ノ宮間特許
昭和18年(1943)11月21日 武庫川~洲先間開通
昭和19年(1944)8月17日 武庫川~武庫大橋間開通
昭和19年 (1944)11月25日 武庫大橋~国鉄西ノ宮間が開通
昭和21年(1946)1月 武庫大橋~洲先間全線の旅客営業が休止
昭和23年(1948)10月 武庫川~洲先間営業再開
昭和33年(1958)7月 貨物営業休止
昭和45年(1970)11月5日 東浜(西高州)~洲先間免許失効(起業廃止)
貨物営業廃止
昭和60年(1985)4月14日 武庫川~武庫大橋間廃止
武庫大橋~甲子園口間免許失効(起業廃止)
撮影年月日 昭和22年(1947)8月20日 撮影 米軍
撮影縮尺 43799
出典:国土地理院ウェブサイト(http://www.gsi.go.jp/)をもとに加工
武庫川線引き上げ線
本線からの連絡線との合流地点
この部分の線路は引き上げ線として残され
尼崎車庫への入出庫時に使われる
引き上げ線は旧国道にかかる武庫川橋の手前あたりまで続いている。
数年前までは折れ曲がった線路が引き上げ線の
脇に放置されていたが、現在では完全に
撤去されている。
旧国道武庫川橋
引き上げ線終端部から旧国道の武庫川橋までは
阪神の所有地として残されている。
敷地内には枕木などの資材が積まれている。
武庫川橋から先の線路跡地は宅地として
売却された。
武庫大橋駅跡地
戦後長らく廃墟になっていた武庫大橋駅も
完全に撤去され、住宅地に生まれ変わった。
国道2号線武庫大橋
武庫大橋駅では国道線と連絡していた。
国道線も昭和50年(1975)に廃止された。
武庫大橋の北側は空き地になっている
武庫大橋~洲先間は三線軌となっていた
武庫川団地前までの延伸工事が始まる前まで
洲先駅付近に三線軌の線路が残っていたことは
有名な話
武庫大橋から国鉄西ノ宮までは狭軌の線路が敷かれていた。
武庫大橋以北の廃線跡の一部は
西宮市の鳴尾浄水場の一部になっている。
ここは旧・甲子園ホテルの裏手
甲子園ホテルは武庫川線建設時には
海軍に接収されていた。
JR東海道線武庫川鉄橋
武庫川線は大きくカーブして東海道線と並行して
西ノ宮駅へ向かっていた。
私の通っていた高校が阪神国道駅にほど近い
JR東海道線沿いにあったのだが、そばを流れている津門川に線路の敷かれていない橋桁が
架かっていた。
当時は気にも留めず通り過ぎるだけ、しかも親父から厳しく鉄道趣味の禁止を言い渡されていたため、関心を持つこともできなかった。
この使われていない橋げたが実は
武庫川線の廃線跡だったと分かったのは
卒業から20年以上後のことだった。